温泉・貸切露天風呂:新潟の温泉旅館「嵐渓荘」

2019年06月09日

「嵐渓」の由来



嵐渓荘の嵐渓とは?
と時々お客様に尋ねられます。
答えは簡単単純で、五十嵐川の渓谷エリアで「嵐渓」です。
三条市には「嵐北(らんぽく)」「嵐南(らんなん)」というエリアもあります。
その嵐渓を冠にした本があります。その名もズバリ「嵐渓史」。
明治時代の書籍で私も以前コピーを頂いて目を通したことがあります。
当時これは読んでみたい!と思ったのですが、
古い言葉や漢詩もたくさん掲載されていて…そっと閉じました(^^;)
今回、その「嵐渓史」が国立国会図書館のデジタルコレクションに収蔵されていると知りました。
国立図書館デジタルコレクション「嵐渓史」


がんばって序文を読んでみました。
我が嵐渓の地たる、地勢隆々、邐迤【りい:まがりくねって続く様子】として東西に開け、秀麗なる四山は畫屏【画屏:美しい風景】の如く斯郷を繞【めぐ:巡】り、蜒蜒縹渺【えんえんひょうびょう:うねうねと長くぼんやりかすかに】たる清江は滾々【こんこん】として其間を流る。沃野平嚝【へいこう:たいらに広く】、累々【るいるい:おびただしい】たる果實【果実】は結び、美田千頃【せんけい:遠く彼方まで】青々たる稲苗は栄ゆ。渓流の潺湲【せんかん:さらさらさと水の流れる様子】と鳥聲【ちょうせい:鳥の声】の呢喃【じなん:鳥が鳴くこと】とは、洋々として相和し、自然の音樂を奏す。光風朗月、春花秋錦、佳ならざるはなく、詞人墨客【ぼっかく:書画を書く風流人】の杖を曳くもの、吟賞飽くことを知らず。宛然【えんぜん:さながら】、一の武陵桃源【世間とかけ離れた平和な別天地】をなす。故に、斯郷は太古時代より、土民の繁殖して、城市聚落をなせしことは、今、各地に散在せる畵甎【がせん:画れんが】土器の類、及、其地名の存するを以て證【しょう:証】すべく、此地の早くより世に知られ、是れが、歴史上の事蹟に富める、亦、偶然にあらざるべし。即ち、我が越の開拓の祖たる、皇子五十日足彦命【いかたらしひこのみこと】の居を営み給ひしを、始とし、高倉以仁王【たかくらもちひとおう】の平氏の難を斯地に避け給へる、或は、北条時賴の行脚し来り、新田義宗の軍勢を率い来れる、或は、鎌倉武士として有名なる小文治吉辰の斯地に生れたる、其他、武士にして、戦敗流離、世を忍び来れるもの等、枚挙に暇あらず…

とにかく「嵐渓」は素晴らしい桃源郷のような場所だ!
そして大和朝廷時代の皇子にも、平安時代の皇子にも縁のある土地だ!
と強く訴えられています。そして、最後はこのように序文を終えます。
「我が嵐渓風光の美を世上に紹介すると共に、我が親愛なる青年諸氏が郷土の美を知り、その愛郷心を振起せられんが為なり」

著者はよっぽど「嵐渓」に思い入れのあった方なのだろうなと感じました。
現代の「嵐渓」に暮らす青年諸氏の私もグッときました。

そこで、著者の「小柳一蔵」さんについて調べたところ以下の記事を見つけました。
小柳一蔵(かずぞう)
明治元年(1868)-大正12(1923)
嵐渓史を著した他に、五十嵐神社の県社昇格に生涯を捧げた方でした。
小柳一蔵さんを詳しく解説する記事
最後は自分の命をかけて嵐渓をそして五十嵐神社を世に知らしめした。凄い方でした。

嵐渓史の巻頭に「嵐渓医院」という明治時代の病院の写真が掲載されています。
同じ写真は「下田村史」にも掲載されていたのを思いだしました。

今回のBlog記事の先頭に載せた空撮画像にある橋のたもとの建物。
これが明治時代に建てられた「嵐渓医院」です。
※実は空撮ではなく、八木ヶ鼻頂上から撮影された画像ですが。
この画像が撮影された頃には「八木館」という旅館として建物は利用されはじめていました。
その経緯も下田村史に載っています。

「嵐渓医院」のお医者さんは、この建物から別の場所に移動して医者を続けました。
その移った先というのは画像中央右にある川に出張った建物です。
さらに時代は下って第二次大戦終戦後、そちらの移転先の建物にもお医者さんはいなくなります。
その空いてしまった建物は「嵐渓荘別館」としてリノベーションされ、数年営業されました。
そしてその後は我が家の自宅となり、2019年現在はピアノ教室と嵐渓荘社宅になっています。

「嵐渓荘」という名前自体は、終戦後に観光旅館として再出発するとき、、それまでは八木鉱泉とか妙の鉱泉とか温泉地名だけで宿に名前はなかったので、再出発するにふさわしい宿名を新聞で公募したと私は聞いています。
そして、その応募作品の中から選ばれたのが「嵐渓荘」だったとのこと。たぶん本当の話だと思います。いい名前だなあとも思います。

今回「嵐渓史」を書いた小柳一蔵さんの熱い想いを知りまして、あらためてこの「嵐渓」エリアを、桃源郷とまではいかなくても、自然とともに豊かに暮らせる場所として後世に残していけるようにしたいと、強く思った次第です。